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妄想島ぐらし

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利尻富士町に住んで歴史の謎を解き明かす

日本海に面した利尻富士町
日本海に面した利尻富士町には、海と山が織り成す美しい景観が広がる

利尻富士町に滞在したのは2019年8月。そのときに衝撃を受けたのは、雄大な自然、美味しい海の幸、利尻島を愛する人々、そして「意外な城が人気」という調査結果だった。
利尻島で城の調査と聞くと不思議に思われるかもしれないが、仕事の関係上、私は年間100以上の城をめぐり、城について物を書いたり講演をしたりしている。訪ねた城は、国内で900城、海外で100城、合わせて1000を超える。

しかし、利尻富士町には城がない。城の起源は弥生時代にさかのぼり、4万とも5万ともいわれる城が全国にあり、「城がない」という方が珍しい。このことがまた、強烈に私の興味を引いたのだ。

「なぜ利尻富士町には城がないのか。形が残っていないだけで、本当はあったのではないか。」

この問いがきっかけで、わたしは利尻富士町に移住することにした。
風習や文化は、ただ観光しただけでは見えてこない。じっくりとその地で生活をしながら、時間をかけてその土地のことを知る。これは、私が以前移住した、九州の城下町で学んだことだ。

謎を解明するため利尻富士町へ移り住む


鴛泊港を望む。利尻島(鴛泊港)と稚内港は定期船が結ぶ

利尻富士町のWebサイトで情報収集したり、役所で手続きをしたりと、移住を決めてからの動きは早かった。移住当日、稚内港から定期船に乗り込み、利尻島での生活に胸が高鳴る。

海を渡ればいよいよ利尻島というところまでやってくると、前回訪れた時の記憶が鮮やかによみがえってきた。利尻島周辺の海域は利尻昆布やウニなど多くの生物を育み、水面の色彩が移り変わる。
ふと、以前島の人と会話した時のメモを見返すと、そこには「金のシャチホコ」という走り書きがある。前回の調査で誰かが口にしたこのキーワード。これが謎解きの大きなヒントになるのだった。

謎が謎を呼ぶ結果。利尻富士町の人が好きな城は…


やきやき(バーベキュー)しながら答えてくれた皆様

城の専門家として、新しい土地に行ったときは必ず「あなたの好きな城はどれですか」と人々に聞いて回ることにしている。その回答は、おおよそ2つのパターンに分かれ、一つは故郷や生活圏内にある身近な城。そしてもう一つは、国宝や世界遺産など知名度の高い城だ。

しかし利尻富士町では、これまでの傾向をくつがえす衝撃的な結果が出たのだった。

「やきやき」と呼ばれるバーベキューのイベントに参加した日のこと。いつものごとく、地元の人に好きな城の名を挙げていただいた。約20名のうち、半数以上の人が答えた一番人気の城はなんと「名古屋城」。

たしかに知名度の高い城(天守は太平洋戦争で焼失したため再建)ではあるものの、トリップアドバイザーが発表する「旅好きが選ぶ!日本人に人気の日本の城ランキング 2020」を見ても、名古屋城は残念ながら20位以下だ。

北海道の北端に住む人が、なぜ名古屋城を挙げるのか。しかもその数、その場にいた人の過半数を超えたのだ。利尻富士町と名古屋城の間に縁があるようには思えない。「利尻島に城がない」という事実に加え、なぜ名古屋城が好きな人が多いのかという、新しい謎も加わった。

利尻富士町の謎を解く手がかりは「2枚の古写真」


1枚目の古写真:石垣が印象的で、「ナヤ(木架)~ニシンなどを干す場所」と記されている

利尻富士町の玄関口、鴛泊(おしどまり)港近くの郷土資料館で見つけた、2枚の古写真が謎を解く手がかりになるかもしれない。

1枚目は、石垣に支えられた土台の上に、木組みの建物が建てられている写真。石垣をよく見てみると、一つ一つの石が直方体の形をしている。石を加工して積み上げているのだが、この手法は江戸時代以降の「築城術」に通ずるものがあると感じた。

そもそも、この石をどこから採ってきたのかを、突き止めなければならない。

2枚目の古写真:「久連の平田漁場」と記されている。久連は利尻島の南東部に位置する

2枚目は、荒々しい海に突き出た漁港らしき場所の古写真。写真右下に書かれた「久連(くづれ)」とは、かつて大いににぎわった漁港だ。利尻島は「利尻富士町」と「利尻町」からなり、九連は現在の利尻町に位置する。

気になったのは、石積みが白で塗りつぶしたようになっていること。石積みを波から守るために漆喰(しっくい)で補強したものだと考えられる。金沢城(石川県金沢市)や新発田城(新潟県新発田市)の外壁に使われた、海鼠壁(なまこかべ)と似ているようにも見える。ただ、白い部分の材質が分からないことには何とも言えない。港の石積みと築城術が関連する例は他にもあるため、海沿いの石垣を隅々まで調査してみることにした。

ちなみに、久連には日本海沿岸、とくに石川県や青森県からの移住者が多いということがわかった。これも重要な手がかりになりそうだ。

生活に溶け込んだ「城」を探す


利尻島北部(利尻富士町)にある本泊(もとどまり)港近くの海岸で、干した昆布を取り入れる人々

2枚の古写真に写っていたのは、いずれも海に近い場所だ。
江戸時代末期以降、利尻島には出稼ぎの漁民が増え、明治時代初期にはニシンの豊漁を夢見る移住者が激増したという事実も、何か関係があるかもしれない。

北海道の北部に位置する利尻島へ、日本海沿岸から多くの移住者たちが渡った

青森県や秋田県、新潟県、富山県、福井県、鳥取県など、日本海側を中心に、各地から人々が移住してきたのだ。戦後はニシン漁が下火になり、移住者は減ったものの、富山県や鳥取県の移住者によってもたらされた「獅子神楽(ししかぐら)」など、今でも継承されている文化が残る。

利尻島でみつかった、越中(現在の富山県)で作られた太鼓

他にもおもしろいものが見つかった。江戸時代末期に越中(現在の富山県)で製作された太鼓が、利尻島で見つかっている。日本海側の伝統芸能が利尻島で継承されているということは、土木技術や築城術なども伝わってきた可能性がある。

当時、越中から利尻島に移った人々は、未知の世界で生きていかなければならなかった。現在のように手厚い移住制度があるわけではないし、生活が保障されているわけでもない。生きていくために頼りにしたのは、自分達が身につけてきた実用的なスキル(土木技術や築城術)であり、エンターテインメント(伝統芸能)であったと考えられる。

その痕跡がどこかに残っている可能性は大いに考えられるではないか。
想像するだけで、歴史のミステリーに胸が高鳴る。

城がない理由も突きつめたい


利尻島を象徴する利尻山。周辺を調査したが、山城や砦のあとは見つからなかった

謎は謎のままではあるが、2つの仮説を立ててみた。

まず「利尻には城がない」という謎においては、ひと目では分からない「利尻島の城」が、島のどこかに隠れているのかもしれない。城の石積み技術は、段々畑を作る過程や河川の補強工事など、生活に近い場面で使われる例が多々あるからだ。

城とはそもそも、戦時に敵から身を守り、攻撃を防ぐためのものとしてつくられたもの。城がないということは、争いがなかった平和な歴史を示すのかもしれない。
北海道に渡れば「チャシ」と呼ばれる城が550ヵ所ほど見つかっている。これは道東・道南を中心にアイヌの人々が造ったもので、堀を掘った土で土手を造り、木の柵で囲んだタイプの城だ。

利尻島は島だから安全だったのかもしれないが、では同じく島である沖縄はどうか。

沖縄には「グスク」と呼ばれる琉球(沖縄)の城がある。石灰岩の産地である沖縄。石を加工し、曲線状に造られた城壁が特徴的だ。このグスクは沖縄本島だけでなく、奄美大島から宮古島、八重山諸島など広範囲に渡り、300ヵ所ほどが見つかっている。

となると、「島だから安全=城がない」とは言えない。なぜ利尻島には城がなかったのかは、興味をそそるテーマだ。

城が見つからない利尻島を北(利尻富士町)側から俯瞰する

もう一つ、「なぜ利尻の人は名古屋城が好きなのか」という謎についてはある仮説が浮かんだ。名古屋城の城主と言えば、かの有名な徳川家康。利尻には毎年6月20日に行われる「麒麟獅子(きりんじし)の舞い」という伝統芸能があるのだが、よく考えてみると、この舞いは徳川家と大きな関連があるではないか。

この舞の起源は、徳川家康を祀った鳥取東照宮の祭りに始まったものだ。明治時代には鳥取から利尻・長浜地区への移住者が増えるのだが、家康に関連する麒麟獅子の舞いが継承されているところを見ると、利尻に移住した鳥取の人たちの影響が考えられる。
家康が城主である名古屋城を、代々誇りに思って語り継いできたのかもしれない。

また、海や漁業が身近な存在である利尻では、シャチホコが有名な名古屋城に親近感があるとも考えられる。特に名古屋城のシャチは「金シャチ」の愛称で親しまれ、豪華なイメージがある。ニシン漁に賭けた人々を先祖にもつ利尻島の人々にとって、特別な存在なのかも知れない。

歴史のミステリーにあふれた利尻での暮らし


ペシ(アイヌ語で「崖」)と、夕陽のコントラストは息をのむような美しさ

利尻には、解明されていない歴史や文化がたくさんありそうだ。この地に住んでいると、散歩で出かけた海沿いやふらっと訪れた資料館など、ふとした時に歴史の片鱗を見つけることができる。江戸時代から続く「麒麟獅子の舞い」を、後世に受け継ぐ担い手にもなれる。歴史や伝統文化が好きな人にとっては、これほど魅力的なことはないだろう。

繊細に色が移り変わる日本海と、島内どこからも見守ってくれる利尻山。昆布を干すおじいちゃんやおばあちゃんに昔話を聞きながら、いつか謎を解き明かしたいと願っている。

あとがき

国内・海外問わず、城(城跡)の立地や歴史にふれることで、旅で訪れる地域を知る手掛かりにしています。しかし、利尻富士町では城を探しても見つかりません。「城がないにも理由がある」、それは城の本質に関わる再発見でした。

一方で、古写真に写る港には築城術に似た技法が用いられ、形を変えて城が存在するとも考えています。2019年に訪れた利尻富士町で、城の話の続きをもっとお聞きしたいという想いから、今回書かせていただくことになりました。

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